黎明を駆る者

第8章 双月の幻 5

 ルナン帝国において‘支配者’とは、国の頂点に立つ武人であり、四大元素を意のままに操る最高の呪法士を指す。その認識はフィルナにおいても同様もしくはそれ以上であり、いっそ不滅の幽鬼や化生の者のように言われる事もまれではない。いずれにしても、彼らは超人であり、その辞書には‘恐れ’の文字など存在しないと思われるのが常であった。
 しかし……己の横に立つそのひとりが浮かべているのは、間違いなく戦慄なる感情に違いない。今にも己に伝染しそうなその気色に呆然と目を見開いたまま、セレナは己らの背後に突如として出現した、小柄な影を見つめていた。
『久しいの。五年ぶりか』
『し……師匠!?』
 鈴振るような声音とともに、蒼い扇がひらりと揺れる。
 半ば掠れたレジェットの声に微笑したのは、烏羽の如く艶めく髪を肩の辺りでばっさりと切った少女だった。
 叙情詩の女神を思わせる艶やかな美貌を彩るのは、精緻極まりないレースと刺繍、そしてアクアマリンで飾られた薄水色(ペールブルー)のドレス。この場に居並ぶ貴人達の例に漏れぬ……それどころか誰よりも豪奢な儀礼装束を翻しながら、彼女はそのままフィリックスへと向き直った。
『そなたも、久方ぶりじゃの、‘疾風の翼(サルヴァルキアス)’よ。変わりはないか?』
『は……はッ!!』
 先刻の鷹揚な態度はどこへやら、直立不動で最敬礼したフィリックスの返事に、少女はころころと喉を鳴らした。
あれ(・・)がおらずとも、相変わらず苦労は絶えぬか。この唐変木の尻拭いもまた、なかなかに面倒じゃからのう』
『ひ……ひでぇよ、師匠!!』
『黙りや』
 泣き言にも似たレジェットの抗議に、少女は扇を閉じてぴしゃりと反論した。
『火の‘支配者’の阿呆極まる行いは、わらわの耳にも聞こえておるぞ。第一、そなたのようなたわけを弟子に取った覚えはないわ。その派手なお(つむ)は飾り物かえ?』
『痛ってぇ!!』
 髪の飾り紐をぐいぐいと引かれたレジェットの叫びが、大広間の厳粛さを無遠慮に乱す。
 涙目で醜態を曝す大男とそれを招いた張本人を前に、セレナはいや増す困惑を持て余しつつ、沈黙を守るほかなかった。
『……マリアン・リーズ殿。帝国第五の威容を誇る、水領土の大貴族だ』
 隣でぼそりと響いた声は、どういう訳か妙に固い。
 こっそりと此方を伺ったセレナに一瞥を遣り、フィリックスは再び小声で言葉を継いだ。
『当代、先代、先先代の水の‘支配者’とその座を長らく争った、この国きっての呪法士だ。戦場で上げた武功も、構築に成功した呪法の理論も、それこそ挙げればきりがない。ハラーレの、呪法の師に当たる方だ』
『父上の……!?』
 思わず声を上げたセレナを視線で制しながら、戦乙女は心なしか青ざめた顔で首肯した。
『私もレジェット(あやつ)も、一時期ともに訓練を受けたが……どんな前線よりも、あれ(・・)はきつかった。平気な顔で耐え抜いたハラーレもハラーレだが、あの方も、十分化け物だ』
『悪かったの、化け物で』
『…………!!!?』
 からかいめいた笑声を従え、紅を乗せた唇が妖しい弧を描く。
 音が聞こえそうな勢いで硬直したフィリックスの心中を知ってか知らでか、枯花の如く萎れたレジェットを離した‘師匠’──いやマリアンは、ゆっくりとセレナに向き直った。
『そなたか。我が不肖の弟子の娘とは』
『は、はい!セレナ……ヴァイナスと申します』
 唐突に己へと向けられた眼差しに、セレナは慌てて膝を折った。
『父親のような阿呆面であったらいかがしようと思うておったが……杞憂であったの。己の有り様をよく定めた、よい顔をしておる。安心したわ』
 しゃちほこばる乙女を悠然と見遣ったまま、マリアンは不意にするりと口角を上げた。
 綺麗な深紅の双眸にくっきりと通った鼻筋、そして陶器のような純白の肌。
 いかにもルナン貴族らしい造形の少女の顔は、かつて一度相対した水の‘支配者’の作り物めいた美貌とはまた違った豊麗さに溢れている。
 しかし、どういう訳か。その優雅な微笑には、多分に悪戯めいた色が見え隠れしていた。
『ただ……今少し、華があってもよいの』
『………?』 
 きょとんとしたセレナに艶やかな流し目を返し、マリアンがつと懐に手を伸ばす。
 ほっそりとした指先が抜き取ったのは、淡桃色の液をたたえた、美しい香水瓶だった。
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